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  • 2023/04/17

初代ロードスター開発主査、平井敏彦さんご逝去

4月13日に訃報がもたらされました。1989年に市場導入された初代NA型ロードスターの開発主査である平井敏彦さんが11日にご逝去され、すでに家族および近親者によって葬儀は済まされたというものでした。享年87。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

1935年に山口県に生まれ、1961年に東洋工業(マツダ)に入社した平井さんは、乗用車の基礎設計に従事するエンジニアでした。しかし、1970年代後半に急速に会社の業績が悪化したため、技術者から率先して販売の最前線に立つべく、北陸地方の販売会社にセールス出向しました。その際、販売の現場において大手ブランドとの値引き合戦を目の当たりにし、「こんなことをしていては疲弊するだけではないのか。大手と同じようなクルマを作っていたら、マツダを選ぶ理由がない」と感じたそうです。その後、FFファミリアの大ヒットにより、マツダはなんとか自立を保つことができ、ファミリア、カペラ、ルーチェ、RX-7、ボンゴといった基幹車種ラインアップを完成しています。1980年代中盤になると、上向きの景気にも後押しされ、さらにマツダらしい新型車種の開発を模索することとなり、その中にオープン2座席のLWS(ライトウェイトスポーツ)の構想が掲げられることとなりました。その動きに手を挙げたのが平井さんでした。セールス出向の経験から、他社にはないこのユニークなクルマを是非とも世に送り出そうという強い意志を持っており、「このクルマを実現できるのは自分しかいない」、と覚悟をもって臨んだ、と言われています。

このLWSプロジェクトでは平井さんのリードにより、乗って楽しいクルマを実現させるために妥協のないアイディアを持ち寄るエンジニアたち、そしてそれに応えようと知恵を絞る生産技術者たちの情熱で、現在の4代目ND 型に至るまですべての世代のロードスターが継承し続ける「人馬一体」フィロソフィーが醸成されていきました。軽量化思想、低いヨー慣性モーメントと重心高、エンジンのフロントミッドシップ搭載、前後重量バランス50:50、ダブルウィッシュボーンサスペンション、パワープラントフレーム、容易に開閉できるソフトトップなどの要素はこの時期から練られていきます。1989年2月のシカゴオートショーでワールドプレミアされた初代ロードスター(MAZDA MX-5 miata)は、その後爆発的にセールス記録を伸ばし、1998年に2代目NB型にバトンを渡すまでに約43万台が生産され、長きに渡って世界中のオーナーに愛されています。その後、平井さんは軽スポーツの「オートザムAZ-1」の開発チームを率い、1993年には58歳でマツダを退社。大分大学工学部生産システム工学科の講師に就任し、後進エンジニアの育成に力を注がれました。

ロードスターは、2000年には2 人乗り小型オープンスポーツカーとして生産台数がギネス記録に認定され、2005 年 8 月に 3 代目、2015年 5 月に 4 代目へと続き、2016 年 4 月には累計生産台数が100万台を突破しています。今日までに北米では約50万台、欧州では約36万台、日本国内は約20万台が販売され、さらに記録を伸ばし続けています。最新車種の4代目ND型ロードスターも発売7年後の2022年でも年間販売台数10,000台を超える人気車種となっています。平井さんが唱えた「人馬一体」フィロソフィは、いまやマツダ車全体を貫く「走る歓び」コンセプトに繋がっています。また、2020年には、平井さんは日本自動車殿堂入りとなりました。同殿堂の選考委員会は、次のように殿堂入りの理由を伝えています。

平井氏は、「日本の自動車文化をこのクルマ(初代ロードスター)に託して伝えたいと思い開発してきた」と述べられており、30 年以上にわたり、好感をもって世界市場で受け入れられてきたことは、マツダはもちろん、日本の誇りといっても過言ではなく、マツダロードスターの人気は世界をも動かし、その後ライバルメーカーから多くのLWSが登場することになった。いばらの道を切り拓きながら失われていたLWSを復活させた平井敏彦氏、ならびに平井氏を支えた皆様に心からの敬意を表して結びとしたい。

平井さん、安らかにお休みください。Rest in Peace.

■インタビュー動画
2010スポーツカーフォーラムにて平井さん肉声収録 (YouTube 3’03”)

Text by MZRacing, Photo by MAZDA

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