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  • 2020/03/08

「マツダ欧州レースの記録 1968-1970」書籍、三樹書房から発売

マツダのモータースポーツ活動の先駆者のひとり、山本紘(ひろし)さんが現役時代に書き留めた欧州レース参戦記録をもとに、その資料を後世に残すため、元コスモスポーツオーナーズクラブ会長の松田信也さんご夫妻が3年の歳月をかけて膨大な記録を読み解き、編集した「マツダ欧州レースの記録 1968-1970」(ハードカバー、288ページ、税込7,150円)が三樹書房から発売されました。

 エンジニアリングを学ぶ学生だったころバンケル式ロータリーエンジンの存在を知った山本さんは、1962年に東洋工業(現マツダ)に入社。実験研究部に配属となります。すると、入社2年目の1963年、第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催され、プライベート参加のマツダR360クーペがライバルのスズキに完敗。マツダもメーカーとしてレース車両を開発することとなりました。その際に担当者として白羽の矢が立ったのが山本さんでした。翌64年にはキャロル360、キャロル600を持ち込むものの、惨敗を喫します。その後、レースに勝つためのマシンをファミリア800で開発しますが、オーバーヒート気味の開発競争により翌年のグランプリは中止となってしまいます。この時が、マツダのモータースポーツ活動が本格的に始まった年といえるでしょう。

 その後、活動の場をアジアに求めたマツダは、シンガポールやマカオのロードレースに挑戦。スズキのライダーだった片山義美らと契約を結んで好成績を上げるようになります。そうするうちに、苦労して開発したロータリーエンジン(RE)を搭載するコスモスポーツが発売されることになり、時のRE研究部部長の山本健一さんから「REの優秀性、耐久性を示すためには、耐久レースで結果を出すこと」との指示を受け、山本さんら担当者は目標とすべき耐久レースをリストアップしました。無謀にも有名だったルマン24時間レースもその候補に挙げられましたが、コスモスポーツでは大改造が必要なため断念しています。その頃、マツダに様々なアドバイスをしていたレース界のパイオニア、古我信生(こが・のぶお、のちにマツダスピードとなるマツダオート東京スポーツ相談室の創設を提案した)氏が薦めたのは、ドイツのニュルブルクリンクで開催されるマラソン・ド・ラ・ルート84時間レースでした。そのため、古我氏がファミリアMPAで1967年の同レースに出場する際、トランクにレコーダーを載せてデータ収集を実施しています。マツダ得意の大型コンピューターでそれらデータの解析を進めた山本さんらは、綿密なニュルブルクリンク攻略作戦を立てて、1968年のマラソン・ド・ラ・ルートに臨みます。そこで総合4位となり、ヨーロッパの自動車メーカーをあっと言わせたのは、偶然ではなかったのです。

 翌年からは、普及型のファミリア・ロータリークーペで二ュルブルクリンク84時間と隣国ベルギーで開催されるスパ・フランコルシャン24時間レースに出場。ニュルでは総合5位、スパでも総合5位となり、「東洋のマツダロータリー侮り難し」の評判を植え付けることに成功しています。迎えた1970年は、スパで総合優勝することを目標に掲げ、4台のファミリアロータリークーペを準備するものの、車検でオーバーフェンダーのサイズ超過を指摘され、現場で改修することに。そのため、ワンサイズ細いタイヤしか装着できなくなります。そのパフォーマンスダウンを補うべく、マツダチームはエンジン回転を500rpm上げて周回することを決断。その結果、片山義美/武智俊憲組が21時間目までトップを快走するものの、その後エンジントラブルが発生し次々に脱落。残った1台が5位でフィニッシュしました。当時エンジンメカニックであった松浦國夫さんは、「振り返ると私のレース人生で最も大きな悔いが残るレースだった」とこの事実を回顧しています。しかし、「マツダRE強し」の印象は、ヨーロッパから日本へも伝わり、翌年からはマツダレーシングチームは日本国内のツーリングカーレースを戦うようになります。それまでチームは、10Aエンジンでレース活動を行っていましたが、強力なスカイライン軍団を打ち負かすため、アメリカですでに発売していた12Aエンジンを搭載したサバンナRX-3をレースで使えるようするため、山本さんは各方面と交渉し、認証を得ています。それが、その後RE搭載車が国内レース連勝記録を更新し続ける原動力となり、その後のSA22C RX-7によるIMSA挑戦、マツダスピードのルマン挑戦につながり、IMSA 100勝や1991年のルマン総合優勝に至っています。まさに本書にある黎明期のマツダ・モータースポーツ活動の最前線に立って奮闘した山本さんの記録は、日本の自動車産業にとっても宝であると言えるでしょう。

 その後山本さんはモータースポーツ活動から退き、1987年にのちのユーノス・コスモの開発主査となり、20B型3ローターターボエンジンの開発をリード。その後、商品開発本部副本部長を務められ、2001年に退職しています。

 本書籍では、1968年の二ュルブルクリンク84時間(マラソン・ド・ラ・ルート)から1970年のスパ・フランコルシャン24時間レースに至る欧州レース巡業のレース記録、多くが手書きであった図版、グラフなどの資料が随行した社員カメラマンの写真とともに配置されています。

三樹書房刊「マツダ欧州レースの記録 1968-1970」解説動画 (YouTube 5’43”)

※書籍の購入は >>> こちら(MZRacingストア)
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Text and Photo by MZRacing

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