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特集

  • 2017/12/30

追悼特集「RE開発リーダー山本健一さんを偲んで」

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『飽くなき挑戦』こそが発展への原動力(山本健一さんをしのぶ)マツダOB 小早川隆治
 山本健一さんが12月下旬に他界された。マツダのクルマづくりは勿論のこと、日本のものづくりに大きなインパクトを与えて下さった山本さんのご逝去に対して各界から数多くの哀悼の言葉が寄せられている。
 1960年の松田恒次さんによるロータリーエンジン(RE)の実用化に向けた挑戦の決定とともに開発リーダーに指名された山本健一さん、1963年に立ち上がったRE研究部の部長としてチームを牽引、実用化の前に立ちはだかった数々の難題に対する「飽くなき挑戦」を続け、1967年に初代RE車「コスモスポーツ」を発売するに至る。それ以後もアメリカの排気ガス問題、第一次エネルギー危機ともリンクした燃費問題、RE車販売激減による1970年代半ばの経営危機などに直面するが、1978年の初代RX-7を導入により危機から脱出するとともに、2代目、3代目RX-7、RX-8へとつながり、RE車の累計生産台数は200万台弱となった。2012年以降RE車は生産されてはいないが、「飽くなき挑戦」は続いており、遠からず次世代REの姿が見えてくるものと確信している。
 1991年のルマン優勝は現時点まで日本車唯一、レシプロエンジン以外の唯一の優勝記録であり、REの歴史の中でも貴重な足跡として山本さんにとっても忘れがたいものとなっていたようだ。その原点となったのは「REの耐久信頼性と性能の立証」を目的に参加したコスモスポーツによる1968年ニュルブルクリンク84時間レースへの挑戦と総合4位入賞、更にはその後のRE車による各種レースでの活躍だ。ルマンへの挑戦は1974年以来のマツダスピードの挑戦と、エンジン領域を中心に支えてきたマツダの努力に基づくものだが、「飽くなき挑戦を続ける者には必ず女神が微笑んでくれる」というのが、初期のRE開発、RX-7の開発、更には短期間ではあるがルマン挑戦にも携わるこの出来た私の信条だ。ちなみに2001年にスタートした日本自動車殿堂(JAHFA)でこれまで殿堂入りされたマツダ関係者は松田恒次さん、山本健一さん、大橋孝至さんの3名であることをこの場をお借りして皆様にお伝えしておきたい。(www.jahfa.jp
 電動化の促進、自動運転の進展、カーシェアリングビジネスの台頭、中国や発展途上国市場の急速な拡大など、現在日本の自動車産業は未曽有の転換期にあり、山本さんがマツダに根付かせて下さった「飽くなき挑戦」の精神がマツダの更なる発展に向けての大きな原動力になるものと確信している。この項を締めくくるにあたり改めて山本健一さんのご冥福を心よりお祈りしたい。

モータースポーツの理解者だった山健さん マツダOB 松浦國夫
 私の人生最大の恩師、山本健一さん(山健さん)ご逝去の報に接し、惜別の想いを深くします。長い間お世話になりました、謹んでお悔やみ申し上げます。山健さんの下で働かせて戴いたおかげで、今日の私はあるのです。
 山健さんとの出会いは、私が東洋工業に入社後8年目の1964年(昭和39年)2月頃です。それまでの発動機組立工場から発足間もないRE研究部への異動辞令を受け、工場の先輩上司に連れられて挨拶に行ったときです。以後私は試験課に配属され、仕事は先輩の下で「ロータリーエンジンの燃焼室内火炎伝播計測」に従事しました。研究助手から入りましたが、暫くして本社地区の新実験室完成に伴ってそこで1ベンチ担当者を任されることになりました。テーマは「ロータリーエンジンの高回転化・高出力化研究」でした。 これがのちの「レーシングRE研究」、「REによるモータースポーツ活動」に繋がり、1991年のルマン優勝に続く「飽くなき挑戦」のすべてで、私は現場を担当してきました。これが私のマツダでの職歴の全てです。この間、実験用1ローターから4ローター、コスモスポーツからマツダ787Bまでのレーシングエンジン開発、レースイベント参加のすべての現場を経験し、山健さんには折々に多くの励ましをいただいてきました。中でも最も記憶に残る次の2点を挙げます。
1. 毎週月曜日の定例研究報告会では、時々「レーシングRE研究」報告の機会を与えられていました。1970年スパ24時間レース後の「固定ギヤトラブルで惨敗」報告で困惑していた時に、山本部長から同席の部員(量産RE開発担当)に対し、「松浦君の相談にのってやれ」と指示がありました。この言葉は大変ありがたかった。固定ギヤトラブルは、耐久レースに焦点を当てたマツダのモータースポーツ活動で最大の課題になってきたテーマであり、僅か数名の我々モータースポーツグループにとっては、難題であったものです。この応援の言葉は大変ありがたかった。そして、後のルマン優勝まで最も神経を尖らせてきたレーシングRE耐久性確保の技術ポイントでもあったのです。協力が得られたおかげで、固定ギヤのトラブルは解決。11年後の1981年には、RX-7でスパ24時間総合優勝を果たし、雪辱を晴らすことができました。
2、毎年年末の仕事納めの時、実験室に部長が来られて訓示をいただきました。100名以上の試験課員(大半が量産RE開発担当、数名がモータースポーツグループ員)の前での恒例訓示です。内容は当然量産RE研究に関する状況説明や今後の取組について、慰労の言葉などですが、必ず片隅の我々にも声を掛けて頂いたのです。「RE成功のためには量産RE研究と、レーシングRE研究はクルマの両輪、大事な仕事だからしっかり頑張ってくれ」の励ましの言葉は、新年を迎える言葉としては私たちの最大のエネルギーになっていたものです。この種の励まし発言は、石油ショックなど何度か会った経営危機で会社が厳しい状況の中でも一貫していました。山健さんこそが、REによるマツダモータースポーツの最大の理解者だったのです。山健さんから受け継いだ松浦流「人間やる気になる4条件」をご紹介します。これがあればこそ、少々の困難は乗り越えられたのです。
①目的(モータースポーツはマツダのため、マツダの収益・イメージ向上・ユーザー支援に貢献すること)
②目標(130%頑張れば達成できそうなテーマの設定)
③周囲の理解協力(何事もひとりでは困難と思えることも、周囲の同僚・上司の理解と協力があれば達成できる)
④自身のプライド(世界初のレーシングREの研究開発者のひとり)

自動車文化へ貢献された山本健一さん  –  マツダ ロードスターアンバサダー 山本修弘
山本健一さんご逝去の報に接し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
私は、「REを開発したい!」、そんな夢を持って東洋工業へ入社し、希望が叶ってRE研究部の第一設計課に配属されました。初代RX-7のエンジン本体設計とレース用REの担当だった当時は、山本健一部長と同じ事務所で、席も10mと離れていない場所でした。山本さんは、広島東洋カープが勝った次の日には、新聞を見ながら笑顔だったことを良く覚えています。また、カープが初優勝した1975年は職場でお祝いした後、ひとりトイレで涙を流されていた姿が心に残っています。仕事では、レース用試作品の部長承認の際、設計内容を説明したのち、「よしわかった、頼むぞ!」と図面の部長欄にさっと承認サインを頂きました。この人のためにも頑張らねば、と勇気をもらったことを忘れません。1984年に社長になられ、翌年の新年の社長メッセージで発表された「自動車文化論」六か条は今でも私の業務ノートに挟み携行しております。最後の「文化の香りのする」というメッセージが特に心に残ります。それから、今やマツダのブランドアイコンたるロードスターの生みの親でもある山本さんには、本当に感謝しています。初代ロードスターの量産化にゴーサインを掛けて頂いた山本社長の英断がなければ、今のロードスターは存在しかったのです。人馬一体という考えも生まれなかったかもしれません。最後に山本さんが我々に伝えていただいた、「技術者たるもの自らをえぐるような心がなければ」を忘れず、「飽くなき挑戦」を引き継ぎ実践できるように精進したいと思います。

山本健一さんを偲んで コスモスポーツオーナーズクラブ 花本恵嗣
山本健一さん、私達の大きな夢をかなえていただきありがとうございました。 日本のモータリゼーションの発展の中でREの実用化は最もエポックメイキングな出来事だったと思います。夢のREが実用化され、ついに革新的な技術の産物であるREを搭載したコスモスポーツが発売されました。いつかは乗り回してみたいと夢見たものです。その後ファミリアロータリークーペが発売され、すぐさま購入して乗り始めたとたん、REの魅力にとりつかれてしまいました。その後、RX-3、ルーチェ、RX-7 SA22Cなどどっぷりとはまってしまい、現在はコスモスポーツに原点復帰しています。山本さんとお仲間達が作り育てたREスパイラルから抜け出すつもりはありません。私達はREと山本さんのことは一生忘れません。また近い将来きっとマツダにREを甦らせてもらえると信じています。どうか天国から見守っていてください。夢をかなえてくれてありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

いつも励ましのお言葉をいただきました レーシングドライバー 寺田陽次郎
  私が山本健一さんに最初にお会いしたのは確か1970年代の前半。私がマツダオート東京で国内レースに参加していた時だったと思います。前マツダ社長の山内(孝)さんが沖縄マツダに居られたときに沖縄に呼んで頂き、講演で山本さんとご一緒させて頂きました。控室で「レースで世話になっているね」と労いのお言葉をやさしい笑顔で頂き、大変恐縮したこ事を覚えております。その時に先程とは全く違うするどい眼光で、「これからのREは背骨を強くしなければいかん」などとおっしゃっていました。次にお会いしたのは1986年にルマンに来られた時、同じように励ましのお言葉を頂きました。以来1991年のルマン総合優勝に至るまで、影になり日向になり活動を支えて頂いた事に大変感謝いたしております。山本さんがお育てになったREでルマンに勝ったマツダ。そのマツダを愛する者のひとりとして、山本さんの「飽くなき挑戦」の魂が今後のマツダに引き継がれる事を信じて、ご冥福をお祈り申し上げます。

REST in PEACE —– Berny Herrera
“Kenichi Yamamoto! Arguably the most influential person in the development of the modern Rotary Engine. He was the true giant of what we have and love today. He and his “47 Ronin” conquered the challenge! He not only made Rotary what it is today, but Mazda as a company too. Rest in peace”
山本健一さんは、間違いなく現代のロータリーエンジン開発の最大の功労者です。それは私たちが所有し、愛するもの、ロータリーエンジンの巨人そのものです。彼とロータリー四十七士は、困難な挑戦を克服しました。彼はマツダロータリーエンジンを生み出しただけでなく、今日のマツダの企業基盤をも作り上げたのです。安らかにお休みください。 バーニィ・ヘレラ(南カリフォルニアRXクラブ代表)

父は山本さんへの恩義を忘れず、尊敬していました — 片山レーシング代表 片山勝美
父・片山義美と山本健一さんは、ロータリーエンジンの開発初期の時からお会いする機会が多かったそうです。東洋工業3代目社長の松田恒次さんの呼び出しを受け初めて神戸から広島に行った時、部屋に入ると山本さんが居られて3人で話し合いをしたと聞いております。1984年にルマンでクラス優勝(ローラT616によるグループC2クラス優勝)した時も、個人的に会いたいと申し出があり直接労いのお言葉を頂いて大変感激したと言っておりました。3代目社長の松田恒次さんと同じく、大変恩義があり尊敬する人だったとお酒の席でも何度も聞いていました。幼い日から何回か、成人してからも何度か父の付き添いで、イベントなどでお会いする機会がありました。謹んでご冥福をお祈りします。

ロータリーエンジンは永遠に  コスモスポーツオーナーズクラブ 事務局 國方卓
ロータリー開発四十七士のリーダー、山本健一さんが亡くなられた。山本さんは、我々クラブに対し、応援をし続けて下さいました。10Aエンジンのハウジングが無く、オーバーホールができないと直訴した際も協力して下さり、ハウジングの再生産ができました。私の結婚式には、「飽くなき挑戦」プレートをプレゼントして下さり、今も私の愛車コスモスポーツ・MATビハイクル号に輝いています。2015年に巻頭のお言葉を頂いたクラブ会報誌「ウィラブコスモスポーツ」を届けるため、神奈川県に居住されていた山本さんをお訪ねしました。山本さんは、本の完成を大変喜んで下さり、ロータリーエンジン開発当初の話をたくさんして下さったうえで、「皆さんの様なロータリーエンジンを愛して下さるユーザーの方々がいて応援して下さったからこそ。頑張れました。ありがとう」と言って下さいました。山本さん、どうか安らかにお眠り下さい。ロータリーエンジンは、これからも「飽くなき挑戦」の合言葉のもと発展していくことでしょう。私達も、ロータリーエンジンと共に永遠に走り続けます。素晴らしいエンジンを作っていただき、ありがとうございました。あなたのことは決して忘れることはありません。深謝。

以上 敬称略

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